昔から日本一のエンターテイメントのまち
現在世界から多くの人が訪れる大阪・ミナミ。
鎖国していた江戸時代でも外国人は多くの記録を残しています。
あらゆる歓楽に事欠かない都市
1691年(元禄4年)に大阪を訪れたケンペルは次のように書き記しています。
「贅沢をしたり、官能的な娯楽をするのに必要なものは何でもある。それゆえ日本人は大坂をあらゆる歓楽に事欠かない都市だという。公け(原文ママ)の劇場でも小屋掛けでも毎日芝居が見られる。」(1977年 江戸参府旅行日記 訳者 斎藤 信 平凡社)
近松門左衛門の活躍
1685年(貞享2年)、井原西鶴作宇治加賀掾(うじかがのじょう)語りのコンビに対し、『出世景清(しゅっせかげきよ)』により道頓堀決戦で完全勝利を収めた近松門左衛門と竹本義太夫のコンビは、「新浄瑠璃(しんじょうるり)」を確立し歌舞伎発祥の京都四条を徐々に凌(しの)いでゆきます。主な作品は次の通り。全て竹本座にて初演。
1703年(元禄16年)『曽根崎心中(そねざきしんちゅう)』お初(はつ)徳兵衛「恋の手本となりにけり」→心中ブーム
1711年(正徳元年)『冥途の飛脚(めいどのひきゃく)』梅川(うめかわ)忠兵衛(ちゅうべえ)「封印切り(ふういんぎり)」→他の作者が「傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)」「恋飛脚大和往来(こいびきゃくやまとおうらい)」に改作
1715年(正徳5年)『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』17ヶ月上演。時代物。日本人との混血児・鄭成功(ていせいこう)(国姓爺(こくせんや)/田川福松(たがわふくまつ))を「和藤内(わとうない)」と称して、清に滅ぼされた明の再興にの為中国に乗り込む。
1720年(享保5年)『心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)』世話物。紙屋治兵衛(かみやじえ),小春(こはる),おさん 道行名残の橋づくし(みちゆきなごりのはしづくし) →「河庄(かわしょう)」に改作 →1723心中禁止令(しんじゅうきんしれい)
1721年(享保6年)『女殺油地獄(おんなころしあぶらじごく)』世話物。河内屋徳兵衛(かわちやとくべえ)お沢(さわ) 与兵衛(よへえ) 油屋(あぶらや) 豊島屋(てしまや)の女房お吉(きち)が織りなす複雑な心情、刺激的なタイトル、凄惨(せいさん)な場面が話題の作品。
竹本義太夫(たけもとぎだゆう)(西風(にしふう))VS.豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)(東風(ひがしふう))
竹本義太夫は竹本座の経営を、同じ道頓堀でからくり芝居の竹田座を運営していた竹田出雲(たけだいずも)に譲り、芸に専念しヒットを続けていきます。
1703年(元禄16年)直弟子の竹田采女(うねめ)が人気を背景に豊竹座を立ち上げ豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)と名乗る。同じ道頓堀の西の竹本座・竹本義太夫と東の豊竹座・豊竹若太夫は人気を競い、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本人最大のエンターテイメントとして黄金時代を迎えます。
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